2020年3月14日土曜日

呈蓮寺@上田市中央北

宝池山呈蓮寺。
浄土宗。
寺伝では、鎌倉初期の建久年間(1190-1199)曽我十郎祐成の妾、虎御前が開基したと伝えられるという。

仇討ちで工藤祐経を討った曽我兄弟の死後、虎御前は仏門に入り諸国を巡礼。善光寺詣りのとき太郎山眉間林の麓に一宇を建立、「虎立山祐成寺」と号した(虎立山菩提院祐成寺とも)という。
その後、寺は荒廃したようだが、応永年間(1394-1428)に鎌倉光明寺の一誉俊厳上人が再建。永享五年(1433)布教のため殿堂を山上より山下の現在地に移転(九世聖誉のとき)して「呈蓮寺」(宝池山九品台院呈蓮寺)としたという。
本堂は寛政八年(1796)に再建したもの。

境内の墓地に江戸時代末期の和算学の大家「竹内善吾の墓」(上田市指定文化財)がある。
文化十三年(1816)九月二十五日、小林一茶が江戸に出る途中で呈蓮寺に泊まっているという。

以上、寺伝の原本の内容を知らないのでネット上の情報からまとめてみた。
一説に佐久に庵を結んだ後に太郎山の麓の眉見林に寺院を建立した、という話を挟んだものもある。
上平の眉間林の下のところに「虚空蔵堂」があり、やはり、虎御前が諸国巡歴のさいに背負っていた虚空蔵菩薩を祀り、そこに虎立山祐成寺が建立されたという話もある。

「曽我物語」に登場する虎御前(大磯の虎)は「吾妻鏡」にも出てくることから実在した女性とされる。
曾我兄弟仇討ち事件(1193)後、捕縛されるが罪はないとして許され、箱根で兄弟の供養をし出家、信濃善光寺に赴いた時19歳だったと記されているらしい。

虎石や、虎御前の墓という伝説は全国にある。
そうした虎御前の伝承が諸国に広くみられるのは、曽我伝説を流布していた各地のトラと呼ばれた巫女達の行為及び活躍が、虎御前そのものとして後世に伝わったものと民俗学者の野村純一は推測している
そのトラと呼ばれた巫女達は、柳田國男のいう「嘗てトラ トウロ トランと呼ばれた、仏教、道教を修めた巫女がいて、トラ石と呼ばれる石のある場所で修法をしていたのでは」であり、「御前」は瞽女(ごぜ)に通ずる盲人の女性芸能者であったのかもしれない。

虎立山祐成寺があったという上平地籍からは、8世紀前半以前と思われる布目瓦が発掘されている。
それは祐成寺が建立されたという鎌倉初期の建久年間(1190-1199)以前に寺院が存在していたことを示唆するものである。
また上平には「矢島城」があり、別名「北林城」「北林庄司城」などと呼ばれ、北林氏や矢島氏の城と考えられている。
祐成寺がこれらの氏族の庇護を受けていたのは間違いないであろうが、奈良時代まで遡るかもしれない布目瓦が発掘されたことと、「北林庄司城」の庄司が荘園の役人で荘官のことであることを考え合わせると、古い氏族の存在とその一族の氏寺の存在が浮かび上がってくる。
呈蓮寺の起源はあるいはそこかもしれない。


天正11年(1583)真田昌幸によって上田城は築城されるが、呈蓮寺に隣接する「海禅寺」さらに少し東の「大輪寺」は、城下町の備えとして上田城の鬼門(東北)の方角に計画的に移された社寺という。
近くの「紺屋町八幡宮」も同様であるが、呈蓮寺の伝を信じるなら永享五年(1433)現在地に移転というので上田城築城時には今の場所に在ったことになる。
近くの大星神社も上田城築城以前からのものらしが今は考慮しない。
呈蓮寺、海禅寺、大輪寺が綺麗に横並びしているのは、元々あった呈蓮寺を上田城東北の防衛線に設定したことによるものといえる。


門柱。
門柱脇の道祖神と地蔵。
参道。
山門。
本堂。
大きな唐獅子の木彫が珍しい。
鐘楼。
境内。弘法大師像を安置する小堂や石碑がある。


呈蓮寺墓地には江戸時代末期の和算学の大家、竹内善吾武信の墓がある。
竹内武信。字は子厚。通称は善吾。号は城山,尚綗斎。著作に「規矩元法町間絵」「十字環正解」などがある。
天明二年(1782)上田市山田の農家に生まれ、子供の時の名前を「熊蔵」といった。
幼いころから和算が大好きで、算盤を使った特別の方法による割算は、他に並ぶ者がいなかったという。
家が豊かでなかったので、昼間は商家で働き、夕方から小諸までの往復10里(40km)の道のりを休むことなく通って学んだという努力家であった。
江戸へ出て算術家関五太夫から関流の算術を学び、清水流の測量術,天文暦術などを会得。文化八年(1811)上田藩の士分にとりたてられ、,勘定方をつとめ,和算をおしえた。翌年、名前を「善吾武信」に改め、天保十二年(1841)江戸で作られた『当時名人算者鑑』の番付では、東の大関となり名実ともに日本一となった。
嘉永六年(1853)七十一歳で卒し、両親が眠る呈蓮寺の竹内家の墓地へ葬られた。

竹内武信の師、関輝蕚(五太夫)は小諸の人で、江戸の関流神谷定令に師事し善光寺に算額を奉納するなどしている。 
竹内武信からは小諸の小林茂吉忠良へ関流は伝えられ、東信地方一帯に関流和算が広まった。





2020、2月再訪

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