2019年11月30日土曜日

西念寺@埴科郡坂城町大字中之条

「坂城町誌」によると、浄土宗総本山京都知恩院末寺で、水晶山善仲院と号し、本尊は阿弥陀如来、脇侍は観世音・大勢至の二菩薩。
創建年代は不詳。
寺伝に、住持中之条上沖❨小字陽泰寺跡❩に古刹陽泰寺があり、塚原一族を中心に郷民の多くが檀那寺としたらしい。
塚原宗家は時の領主から領地を拝し、東平地筋の山林管理権を与えられていたが、戦国の動乱期❨文明年間❨1469~1487❩❩に、塚原家は新権力者の命に服さず罪科を問われ一族及びこれに組する者らは逐斥させられた。
陽泰寺本尊を負うた一族主流は神科に逃れ伊勢山地籍に陽泰寺を再建したという。
後年、神科、塩尻などから塚原姓を塚田、中島、滝沢と改姓した旧族が故地に帰ったがすでに頼るべき檀那寺もなくなっていた。
たまたま相州藤沢郷より西念山一行寺の念仏僧西誉念浄が善光寺参拝巡錫の途次、鼠宿新地で浄土の教えを教示するに及んで、一同会座に参じ事情を明かして寺宇の開創を懇願し、よって慶長五年❨1600❩、当地に西念寺、一行寺の二寺を創建するにいたったという。
一行寺は西念寺末寺として江戸時代の記録にのこっており、寛保年間まで旧格致学校周辺にあった。
西念寺は、松代海津城主森忠政の帰依が篤く、慶長八年❨1603❩江戸幕府創始の翌年八月、当時の大官平岡帯刀より寺領高八石の徐地を認められた。
寛永年間❨1624~43❩、存誉助久が中興開山となり、それより八代祖の通誉達全代元禄九年❨1696❩に現在規模の本堂が再建された。
西念寺本尊阿弥陀如来座像は、一木彫成の上品下生の阿弥陀如来で鎌倉期の作と伝えられているが、阿弥陀如来としては森厳な相好で藤原時代から続いた旧派仏師の手になるものと推測されるとある。❨本文ほぼそのまま❩


面白い伝承なのですこし検証してみる。

まず、東平地筋の東平は(ひがしっぴら)で、中之条の御堂川筋の北、開畝製鉄遺跡の裏山辺りかと思われる。東には芝峠があり真田町傍陽の入軽井沢への山道もある。
また塚原姓の由来と関わるかはわからないが、御堂川の北の山には古墳群が見られる。

では、戦国の動乱期、文明年間❨1469~1487❩❩の新権力者と誰のことであろう。
「諏訪御符礼之古書」などから、当時の村上氏当主が政清(満清・政国)であることはわかる。
政清(満清・政国)は寛正二年(1461)に家督を継いで、明応二年(1493)隠居し翌年死んでいるらしい。(「村上義清伝」・志村平治著)
村上氏の系図には混乱が見られ、著書によって世系もばらばらで政清がどの系に結びつくのか定かではないが、およそ南北朝期を経て、村上氏惣領が信貞・満信の系から、後の義清と続く系へ移ったものと見られている。
その政変が政清のときであるならば、塚原氏らが去った理由は一応の想像ができそうである。

村上郷での村上氏の歴史は非常に古いが、鎌倉・南北朝期には周辺に北条領が多かったことと思われる。
坂木郷には薩摩氏があって、「市河文書」から、建武二年(1335)に村上信貞が市河氏と坂城の薩摩氏を攻めているのがわかる。
また舟山郷はのちに村上氏一族の屋代氏の本拠地となるが、「諏訪御符礼之古書」に屋代信仲が表れるのは寛正二年(1461)以降で、それまでは海野氏代官の名がある。
西山や川中島の小土豪達も支配下にあったが完全な家臣ではなかったようである。
村上氏は多くの支族を出し、更級郡、埴科郡から水内郡にまで勢力を伸ばしていたようだが、一円的な領国支配とはなっていなかった。
村上政清のときから、小県郡の海野氏や佐久郡の大井氏を攻めるなど勢力拡大路線になるのは、時代ということもあろうが、村上氏内での支配体制を大きく変える政変があったからなのかもしれない。

因みに、それまでの村上氏惣領の系は足利成氏に仕えて上総国で家を存続させている(「川中島の戦いと北信濃」)ようである。
このことから、おそらく塚原氏は村上氏惣領の系の家臣であったのかもしれない。
「享徳の乱」で古河公方・足利成氏方に村上氏惣領の系が味方し、塚原氏にも従ったものがいたのであろう。
「現代の塚原氏の分布が古河市、小山市に多い理由として、鎌倉期から戦国期まで下野国に勢力を持った小山氏、戦国大名として著名な下総国の結城氏の家臣団にその名が見受けられることがあげられる(『結城戦場物語』)。」(Wikipedia)

現在、塚原一族が逃れたという神科の伊勢山には塚原姓は多い。
伊勢山は戸石城・米山城の裾野になる。米山城は海野氏代官小宮山氏の拠る城で海野氏領であったが、塚原一族と縁のある土地であったか、頼れる縁者がいたということであろうか。検証がすすめば面白いかもしれない。

塚原一族が有したという陽泰寺の本尊が、鎌倉期作の阿弥陀如来座像かはわからないが、古刹であるというので西念寺の阿弥陀如来座像かもしれない。
塚原一族は伊勢山地籍に陽泰寺を再建できるほどの力がある一族であったといえる。

後年、故地に帰ったのは、この後の文脈から江戸時代に入ってからと思われる。

伝説や伝承を鵜呑みにするのは怖いが、必ずしも偽りばかりとは限らない。筆者はこういったものに遠い過去のメッセージが含まれていると思っている。

門柱奥の石塔。意味は不明。
参道。
山門。「水晶山」。
本堂。
本堂前の五輪塔。
案内板。
阿弥陀如来座像と一行寺のこと記してある。
鐘楼。


門柱脇の石碑。「なかんじょ大根」。「なかんじょ」は中之条のことか。


2019、10月初訪

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