戸石城の東、神川を越えた本原に、天文十九年(1550)九月の「戸石城の戦い」(戸石合戦)で武田方が陣城を構え物見櫓を築いたとされる櫓城がある。
この戦いで武田晴信は、村上義清によって「上田原の戦い」に次ぐ二度目の敗戦を喫しており「戸石崩れ」と呼ばれる。
「信濃の山城と館」では、櫓を建てたとあるので陣城であり、物見櫓を築いたことから本陣に近いものであったと考えられるとしている。
櫓城の場所は特定されていないが、「九久館」と呼ばれるところの一角、清水氏宅付近が推定地とされているようである。
櫓城付近からみた戸石城。
ネットに、時代考証家 山田順子氏の考証があるので一部引用する。
下部は布積みといわれる横に平行に積む古い積み方で、上部は落積みという江戸中期以降に見られる石垣で、いつの時代かに上部だけ積み直された可能性が高い。
この付近で、江戸時代に大石の蓋の下から刀40腰短刀18腰が発見されたという史料もあるが、詳しい地図や発見されたときの記録がないので、これ以上のことは分からない。 ここからは私の推理ですが、砥石崩れで信玄が敗北して退却したとき、多数の戦死者を出したといいますから、地元の農民が死体から刀を拾い集め、一ヶ所に隠しておいたのではないでしょうか。真田には古墳が多く点在し、この場所にも古墳があったようなので、石棺の中にでも隠しておいたと思うのですが、いかがでしょう。
東の道路の東側。
山田順子氏はこの畑の塚から刀が出たのではとしているようである。「信濃の山城と館」では、刀が出たのは清水氏宅裏手の塚ではとしている。
東側を南北に走る道路には吉田堰が並走する。
清水氏宅付近の三角路。
櫓城推定地側が幾分高所とわかる。
山田順子氏は、武田氏が陣を構えた「屋降」の考証もされている。
武田信玄がこの城を攻めたときに陣をおいたと推定される「屋降」実は「尾降」
殿城の瀧ノ宮・瀧水寺の裏山一帯が、武田信玄の砥石城攻めの本陣(陣城)跡ではないかと推定している場所です。殿城山から降ってくる尾根の先端部に当たります。 砥石城攻めの唯一信頼できる史料だといわれる『高白斎記』に書かれた「屋降」が、誤字または写し間違いで「尾降」だとしたら、まさにここが「尾降」地です。(時代考証家 山田順子氏)
また一説に、「屋降」は「むねくだり」のことという。
「むねくだり」とは「大棟から、屋根の流れに沿い、軒先に向かって降ろした棟のこと。」らしい。これを戸石城攻めに置き換えると、「戸石城の裾野付近」と解釈すれば良いか。
戸石城の裾野で陣跡と伝承されるところは、「玄蕃山公園の陣場」「信玄鐘懸けの松」伝承の高台がある。
しかし「高白斎記」、
8月27日、「戌子辰刻、長窪を御立ち。未刻、海野口向の原へ御着陣。
8月28日、「砥石の城際、屋降地号に御陣すえらる。
8月29日、「庚刁午刻、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。
9月3日、「砥石の城ぎわへ御陣寄せらる。
「屋降」よりさらに「砥石の城ぎわへ御陣寄せらる。」とあれば「屋降」は山田順子氏の言うように、すこし離れている「殿城山から降ってくる尾根」であるとも思われる。
筆者が思うに、初期の陣は確かに瀧水寺の裏山であったかも知れず、櫓城はその前線の物見であったのかも知れないが、そもそも戸石城を神川の東岸から攻めるのは難しく思える。
直接の攻撃に懸ったときの陣は神川の西岸にあったのではなかろうか。
2018初訪
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