ラベル 観音坂城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 観音坂城 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年11月16日土曜日

内畝@埴科郡坂城町金井

「信濃の山城と館」に内畝❨うちうね❩があり、「伝承、史料等不明。「内畝」の地名の意味するところは、「内堀」と同意語であろうか。ここが城館跡であるかどうかについては、はっきりしたものはないが、館の周囲を囲っていたと思われる土塁の一部が残っていることや、該地から銅鏡三面、永楽通宝338枚、金粒20ケが出土していることなどから、中世にかかわる土豪の館跡ではないかと考えられている。」とある。


北側から見た内畝。土塁は中央大きな木の下。
「信濃の山城と館」に、土塁が館のどの部分ねあたるか不明のため、規模や形状を考えるのは難しいとある。
土塁は南北に伸びているのでこの西側か東側一帯に館が在ったということになろうか。
北の方100mに稲荷社があり、土手がある。その谷川がながれる。
土塁の南西には竹藪に囲まれた一画があり、周辺一帯は微低地である。
小土豪の館であったならば、50m四方程度の館が在ったことになろうか。

土塁東側のまとまりのある一画。

土塁は結構しっかり残っている。
西側一帯は墓地と果樹園になっているが、道路より微高地でまとまりはある。


南西の竹藪に囲まれた一画。
すこし遠いが線路に近い西にある道。

北の方の稲荷社。
土手上の石祠。
谷川。

近く横尾に観音坂城がある。

2019、10月初訪

観音坂城@埴科郡坂城町南条横尾

「長野県町村誌」に「本村の北部住環の傍にあり、今畑地となる堀の形等あり、天正一二年❨1584❩三月上杉景勝幕下、村上義清の男、村上源五景国海津城よりここに移る、慶長三年❨1598❩三月景勝、封を奥州会津へ移し、後廃城となる。」とあり、絵図がのっているらしく、現在稲荷社のある東南にあたっての広大な地籍に及ぶらしい。
当時は北と西に堀跡が残っていたといい、城坂の字地は古く城跡であったことを物語る。❨「坂城町誌」より❩
同書では、城跡の由縁は全く知るべきものがないが、天正十一年❨1583❩から同十二年❨1584❩に及んで、上杉氏と真田氏の間で虚空蔵山の取り合いとなったが、上杉方の指揮所が設けられたことが想像されるとし、村上景国居所というのは更に研究を要すとしている。
「信濃の山城と館」には「町村誌」「南条村誌」の記事に❨景国観音坂城へ移ったのは天正十一年が正しい❩と追記しながら、「更級埴科地方誌」では村上景国築城説ではなく上杉指揮所をとっていると記し、さらに同書では鎌倉時代にいた薩摩氏の一族、薩摩十郎左衛門祐広の館跡がはっきりしないので、或いは観音坂城はその館跡を再興したものかも知れないとあると紹介している。


坂城稲荷社。

坂城稲荷社の裏の土塁。

土塁上からの眺めはよいが、東と南に防塁の類いは見当たらないが一帯の畑地が敷地となろうか。
北から西には葛尾城、出浦城、三水城等が、東南には虚空蔵山城や和合城が見える。


「坂城町誌」の北と西の堀とは、北の前沢川と西の段丘の崖のことであろう。
北の前沢川の崖。

西の段丘の崖


近く金井に内畝がある。


2019、10月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...