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2020年3月13日金曜日

鎌原虚空蔵堂@上田市常磐城鎌原

 
鎌倉初期の建久年間(1190-1199)、曾我兄弟の仇討後、曽我十郎祐成の妾であった虎御前は兄弟の死を悼み仏門に入り諸国を巡礼。善光寺に詣でたとき太郎山眉間林の麓に虎立山祐成寺を開基し、現在の地に庵を結び背負っていた虚空蔵菩薩を尊像を安置したという。

上田市鎌原町
虚空蔵堂
本尊虚空蔵菩薩 恵心僧都作 御丈九寸五分
虚空蔵山麓字豊原に安置せる虚空蔵菩薩の尊像は昔時曾我祐成の仇討後祐成の夫人虎御前が背負ひ来りし護身佛にして剃髪して貞蓮尼となり佛果菩薩のため當國善光寺参詣の砌り太郎山下(眉見麓上寺と言う寺跡沓石等現在す。)に一寺を開基創建と虎立山祐成寺と号す。其傍の勝地即ち現在の地に一宇を営み、尊像を是に安置す、これ現に奉拝しつつ有る虚空蔵菩薩之なり
創建後二回の回録に遭て再建し今日に至る。
(天保十五年甲辰四月吉日再建す。)
又虎歳の守本尊として広く信仰されています。
昭和五十五年四月吉日
鎌原自治会


「曽我物語」に登場する虎御前(大磯の虎)は「吾妻鏡」にも出てくることから実在した女性とされる。
「吾妻鏡」には、建久4年(1193年)5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条)。(Wikipedia)

しかし虎石や虎御前の墓という伝説は全国にあり、全てを鵜呑みにするわけにはいかない。
そうした虎御前の伝承が諸国に広くみられるのは、曽我伝説を流布していた各地のトラと呼ばれた巫女達の行為及び活躍が、虎御前そのものとして後世に伝わったものと民俗学者の野村純一は推測している。そのトラと呼ばれた巫女達は、柳田國男のいう「嘗てトラ トウロ トランと呼ばれた、仏教、道教を修めた巫女がいて、トラ石と呼ばれる石のある場所で修法をしていたのでは」であり、「御前」は瞽女(ごぜ)に通ずる盲人の女性芸能者であったのかもしれない。

「世界大百科事典内」の大磯の虎の言及【虎御前】より
伝説としては,兄弟を弔って諸国を廻国して没した虎御前をまつったとする虎石も多く,福島県から鹿児島県にまで分布している。また虎石,虎ヶ塚,虎石塚と称されるものの中には大磯の虎や曾我兄弟と無関係なものがあり,《本朝神仙伝》や《元亨釈書》には聖山の禁を犯して吉野山に登ろうとした都藍尼(とらんに)の伝説を伝え,高野山,立山,白山にも同様な都藍尼の登山の伝説があることからすると,虎石,虎ヶ塚などの遺跡は,本来,トラ,トラン,トウロなどと称された廻国の巫女の足跡ではなかったかと考えられている。虎御前の名は,このような廻国の巫女の系統を引く盲御前の名で,中世には箱根山を根拠地として,その信仰や物語を唱導する熊野比丘尼系の盲御前の名称となり,農村生活に深い関係のある悪霊鎮圧の物語を語りつつ廻国を続けたものと考えられる。…

「朝日日本歴史人物事典」虎御前の解説
没年:寛元3(1245)生年:安元1(1175)鎌倉初期の相模国(神奈川県)大磯の遊女。虎御前,三虎御前ともいわれる。養母は大磯宿の長者菊鶴,実母は平塚宿の遊女夜叉王ともいわれる。父は大納言伏見実基とも,右衛門督源信頼の兄基成の乳母の子宮内判官家長ともいわれる。和歌の道にも優れ,容姿端麗であった。『曾我物語』では,曾我十郎祐成の愛人となり,富士の裾野で曾我兄弟が仇討ち事件(1193)を起こし,祐成が誅せられると,捕縛され取り調べられるが,罪はないとして許され,出家して尼となり,曾我兄弟の母を訪ね,母と共に箱根に登り,兄弟の供養をし,仇討ちの地も訪れた。その後,大磯高麗寺に住んだが,紀伊国(和歌山県)熊野に赴いた。虎御前の伝承は全国に残るが,出家の身となり,諸国の霊地を歩いた行動が『曾我物語』の形成と流布に関係があるとみられている。

虎御前が諸国巡礼で背負っていた虚空蔵菩薩が残されているという伝承から、虚空蔵堂はそういった巫女達の終焉の地であるのかもしれない。

一方そうした巫女達が寺院を開基したとは思えないし、仮に虎御前本人としても庇護者なしに個人の財力でどうこうできるものでないように思う。
祐成寺があったという上平(眉間林の麓)には、北林城とか矢島城、矢島屋敷、などと呼ばれる城館跡があり、建武二年(1335)に神氏矢島氏が諏訪から入り在地土豪北林氏を川中島方面へ追放して、以後当地方を支配して住んだと言われている。時代的に矢島氏以前の領主庇護のもとに建てられた寺と思われる。

その後虎立山祐成寺は荒廃したようだが、応永年間の頃に、鎌倉光明寺の一誉俊厳上人が再興、永享年間(1433年)に移転して「呈蓮寺」と号し現在に至るという。
また、上平には発掘調査で8世紀前半まで作られた瓦が出土していることから建久年間以前の寺があった可能性もある。


虚空蔵堂。

堂の左手。

堂の右手。

境内。

おそらく眉間林の山。
麓のどこかに虎立山祐成寺が在ったものらしい。

ここでは関係ないかもしれないが、眉間林には眉間林の城があるらしい。また虚空蔵堂の場所は牛伏城荒城の登山口である。



2020、3月再訪



2018年5月30日水曜日

矢島城@上田市常磐城

北林城・北林庄司城・矢島屋敷ともいわれる。
在地土豪であった北林氏を追放した神氏矢島氏の城という。

「…建武二年(1335)に神氏一族の矢島氏が諏訪から北林郷へ移り、北林城へ居城した。在地土豪北林氏を川中島方面へ追放して、以後当地方を支配して住んだ…」
「応永7年(1400)の『大塔物語』等により、応永年間(1394-1428)から永禄年間(1558-1570)にかけて、小県郡に矢島氏が存在したことはほぼ確かで、同氏の城と考えられている。」
また、「かつて、この「矢島城」と「矢島屋敷」は同一視されていたが、「惣名北林絵図」によって「北林城(矢島城)」の他に「矢島屋敷」・「門脇」・「堀の内」があることが分かったという。
その近くには下小路・南小路・まん所などの地名もあり、中世頃に開発領主の館があったことが伺える。」(「信濃の山城と館」より抜載)という。

これらが北林氏・矢島氏とどう関わっているかは、その時代での変動もあろうと思う。
また北の尾根上にあるという「眉間の城」、目近の「牛伏城」・「荒城」、が、これらにどう関わるかも気になるところである。

北の道路から。二条の堀。北側道路脇の一本は埋められて東側斜面に竪堀のみ残る。

 見事に残った堀。左手(南側)には土塁が残る。

 堀の東側は竪堀となり虚空蔵沢へ落ちる。

 土塁の石積。
土塁。
 土塁上から。

 土塁上の古そうな五輪塔。

 二条の堀は西で南に折れ曲がり台地から斜面を下り落ちている。
現在は段畑となっている。

 土塁西隅にある稲荷社。

 土塁からみた(1)の曲輪部。

 (2)から見た(1)との段差の虎口。

 最南端部。

 最南端部斜面の曲輪。

 南斜面の曲輪。祠がみえた。
この辺りが南からの大手入口かと思われるがよく判らなかった。

 東側斜面の曲輪。

 (2)の曲輪。一段高く(1)の曲輪がある。

 「信濃の山城と館」の西隅に一部ある土塁。
延長線上の西側にも土塁があったものか。

 西隅の土塁から見た西の竪堀。


矢島城東側は虚空蔵沢の深い谷である。
写真は谷の反対側からのもの。
 道路を通す為に造られたものか。
コンクリートで無いのがよい。

滝。虚空蔵沢は滝沢ともいうようだ。
矢島城から見た沢の対岸、「牛伏城」の登山口には「虚空蔵堂」がある。「曽我物語」の虎御前に関わり、建久年間(鎌倉時代前期)眉間林に「虎立山祐成寺」が建てられたと伝承され、中央北にある「呈蓮寺」の前身の寺とされる。
「虚空蔵堂」と「祐成寺」が北林氏と矢島氏のどちらに関わるかは不明だが、この上平からは8世紀前半以前と思われる布目瓦が発掘されているので、北林氏かもっとそれ以前に在った豪族との関わりが考えられる。
矢島城の別名「北林庄司城」の庄司とは荘園の役人で荘官のことである。氏寺をもった古い氏族の存在も考えられる。

矢島城

2018、5月
2020、3月一部写真入替および追記

荒城@上田市常磐城

中央より左の尾根先が牛伏城と荒城のある場所だが、後に写真は貼りかえたい。

築城年月及び城主は不明。「長野県町村誌」に「…往古戦争の時の物見ならんか。」、「小県郡誌」に「…所伝なし。或は村上氏連珠砦の一にして、牛伏城と此城とを併せて一郭と見るべきか。」としているという。
「信濃の山城と館」には「…高度が高い割には近隣の諸城への見通しは悪く連絡性は欠ける。花小屋城の一部は見えるが牛伏城は見えない。こうしたこちからも在地土豪の詰城的砦が、その後に太郎山の尾根を見張る砦として活用されたことも考えられる。」としている。
麓の虚空蔵沢の向いには矢島城がある。在地土豪であった北林氏を追放した神氏矢島氏の城という。矢島氏は諸資料から応永から永禄にかけて小県郡に存在したのは確かということであるので、目近の牛伏城・荒城はこれrに関わるとおもわれる。
ただ矢島城の南の堀の内に矢島氏居館があり、北の尾根上には眉間林の城があるとされる。牛伏城・荒城も全てが矢島氏に関わるとも言い切れない。

麓の虚空藏堂から登ると牛伏城を通るので、そのまま牛伏城の堀を越えて道を太郎山頂に登り進むことになる。

それなりに登る事になるが、途中左手に雨水貯めの窪みとも思える場所がある。但し当時の物の保証もなく単なる倒木の根の跡かも知れない。ただ中間地点辺りでもあり、この様な中継点があってもいいとは思う。
やがて坂が緩くなってきたら城域となる。

(ア)の堀切。小さく埋もれてもいるがはっきりとそれと判る。

(イ)の堀切。

写真では判りづらいが、(ウ)の二重堀切。

道の東側の二段の郭。

最上段の郭の北壁は(1)郭の高い切岸となっている。

(ウ)の堀切を振り返る。

(1)郭の虎口とおもわれる場所。
縁部に石積跡が残る。

虎口から見た(1)郭と郭北側の土塁。

虎口から登ってきた南方向の段郭を振り返る。


(1)郭東側は北側の土塁の裾がスロープ状に延び、土塁上に通じる。

縄張り図があった。

土塁脇の道。
土塁上から見た(1)郭。
土塁上は小さな郭程度の広さがある。石があったが、はて。

土塁上から見た(エ)の堀切。

(エ)の堀切土塁側切岸。
もしかしたら多少の石積があったかも知れない。

(オ)と(カ)の堀切。

城域北端から見た(オ)と(カ)の堀切。
なんだか心地よい稜線。

北への道は太郎山山頂まで続いているらしい。

西には沢向こうの尾根には眉間林の城があるという。
東は、?な展望であった。


後先が逆になったが、(1)郭南斜面の段郭を見てみたい。
特に道の西側にある二段の三ヶ月形の郭周辺には石積が多くみられ、雨水貯めの窪みと思えるものも伺えた。


2018、5月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...