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2020年2月4日火曜日

大室神社@小諸市大字諸窪屋敷

飯綱山の麓にある大室神社は、高峯山の頂上の高峯神社の里宮であり、諸の産土神という。

「長野県神社庁」HPから簡単に拾う。
祭神は高寵神(たかおかみのかみ)闇龗神(くらおかみのかみ)大物主大神(おおものぬしのおおかみ)豊受大神(とようけのおおかみ)。
大室神社の原形は、その土地の守り神、産土の神様であり、同時にその土地を開拓した氏子の皆々様の遠き御親、先祖神であったことは想像に難くない。
小諸市の大里地区(菱野・後平・滝原・西原・諸)は、小諸市発祥の地と言われ、また8~9世紀(奈良・平安時代)にはすでに栄え、東山道『清水の駅』を中心に文化や経済の窓口として賑わった。
『清水の駅』という名称から、この地方の始まりが、飯綱山の麓から湧き出る「弁天の泉」や金毘羅山の「ざはらの泉」の湧き水を生活の糧に、先人の居住・生活が始まったことを意味している。
大室神社は、高峰山(2106km)の頂上に鎮座する、高峰神社の里宮でもあり、ご祭神は、貴船神、及び弁財天神、山岳修験道の開祖役之小角である。
境内地内には、摂社飯綱宮、金毘羅宮、出羽三山神社も建立されている。
特に飯綱宮では、古くから「神送り」「神迎え」の神事が執り行われ、佐久平中の神々を集め、飯綱山から金毘羅山まで松明行列を繰り出し、出雲の国出雲大社へ10月神無月に神送り、十一月に神迎えをした。文永年間(1265)、約700年前、大室に住み富士見城を築城した大室彦太郎時光は、岩村田大井の本城と連絡を取るため神社の上手に、のろし台を18塚建立した。その名残として、現在でも「かがり火」の神事が継承されている。戦前は飯綱宮の前で大相撲大会が催された。参道の388段(現在500段位)の石段を登って祭を楽しんだ。内100段は小諸市本町の寄進によるものだと言う。
主祭神には京都の貴船神社の御祭神を勧請し、高龍神・闇龍神(天地自然を司る神。特に雨や水や天候を自在に操るとされ、高は山を闇は沢を意味する)である。


社歴を信じてこじつけてみる。
高龍神・闇龍神(高龗神・闇龗神)の二神は古来、雨乞いの神とされ、その二神一対の神が主祭神であることは、大室神社の起源はまさに土地の守り神、産土の神様たりといえるかもしれない。
大物主大神は国津神の代表的存在で、天津神系以前の歴史を示唆するか。
豊受大神は食物・穀物を司る女神で、稲荷神と習合し稲荷神社にも祀られる。
開祖は、役小角といわれるので山岳修験に関わりが深いと考えられるが、高峰山の頂上に奥社があることは、結局、高龍神・闇龍神(山と沢)に通ずるものがある。

大室神社のある地籍は字窪屋敷で、隣接する字上屋敷とともに「大室氏居館址」及び「大室大井氏館址」の推定地とされる。
立地的に、大室神社と大室氏、或いは大井氏との関係が当然考えられる。

また、栃木県には高靇神社が多いようで闇龗神社もあり、日光市に大室高靇神社がある。関連があるものか。

大室の地名からもわかるが古墳の多い地域であり、そこの産土神というからには古い歴史も頷ける。
大室神社は飯綱山と金毘羅山に広い神域を持ち、その中に金毘羅宮、飯綱宮、出羽三山神社と3つの摂社を持っているそう。
出羽三山神は大室神社の後ろを登ったところにあり、金毘羅宮は西300mにある金毘羅山に、飯綱宮は大室神社のある飯綱の東の上の方にある。
よって、ここでは大室神社と出羽三山神社を取り上げた。

鳥居。
狛犬と拝殿。
拝殿。
拝殿横の石祠。

大室神社拝殿の後ろに出羽三山神社が見える。
出羽三山神社。



金毘羅宮のある金毘羅山。



2020、1月初訪

2020年2月2日日曜日

諸上屋敷館@小諸市大字諸上屋敷

「小諸市誌」に「大室氏居館址考」があり、「源平盛衰記」の白鳥川原に集結した武士に小室氏とともに大室氏があり、名も家譜もその後の事績もわからないが、大室の郷名から大室神社のある現諸付近に居住した武士であることが想像できるとしている。
騎乗の武士であるので館を構えていたと考えられ、その館址は不明ながら、字上屋敷・字窪屋敷・字中村等のいずれかではとある。
また、同誌の「大室大井氏館址跡」には、大井光長の嫡男大井彦太郎時光は大室を領したと伝わり、字上屋敷・字窪屋敷は居館を暗示するが、大室氏のものか大室大井氏のものか判別しかねるとする。

「源平盛衰記」の大室氏を考えるに、源頼朝によって木曾義仲が滅んだのが寿永三年(1184)。
義仲の武将である小室太郎忠兼と、その子眞光の同族と思われる小室光兼が幕府御家人として名があるように大室氏も存続したかもしれないが、大室には後に大井氏が入っていることから没落したのかもしれない。

大井氏の祖とされる大井朝光は、「承久の乱」(1221)の功で大井庄を賜ったという。
朝光の嫡子光長には7人の男子がいて、大室を領したのは大井彦太郎時光。時光の子には光家が確認できるそうだが、その後の大室大井氏の存続は不明という。
一説によると、出羽国由利郡に転出して存続したといい、由利十二頭の一の仁賀保氏の祖は大井光家といわれる。

文明十六年(1484)村上氏によって岩村田の大井城は落城、大井光照は小諸の宇当坂に居住したという。
光照には5人の子があり、小諸に居住していた四男伊賀守光忠を頼ったものと思われる。光忠は大室の跡目となるとあり、小諸大井氏が大室大井氏の系を継いだとも解釈でき、さらに言えば、小室氏の系も小諸大井氏に継承されたことも考えられなくもない。



「小諸市誌」でも「大室氏居館址」及び「大室大井氏館址」は、字上屋敷・字窪屋敷・字中村等のいずれかではとする程度である。
上屋敷地籍がどこからどこまでかわからないが、印象としては「弁天の清水」の辺りは水利から居館に相応しく思われる。
ただし、湧水は他にも多い地域なので水利だけでは説得力が弱い。大室神社との関係や古道との関係を考慮したい。
字窪屋敷は大室神社のところで字上屋敷に隣接する。
字中村はわからないが、おそらく字上屋敷の南側一帯ではないか。

「弁天の清水」。
弁財天神社
「弁天の清水」の上の公園のところ。

大室神社の標柱。





2020、1月再訪

2019年11月25日月曜日

旦田城@小諸市大字滋野甲一騎場

一騎場という字地も気になるところだが、そこに旦田城がある。
深沢川西岸、深沢の深い谷の崖縁になり、「滋野村誌」によると、城域はもっと広かったが、寛保二年❨1742❩「乾の満水」によって深沢川の側面が削られたものであろうという。
現地をみると、中心的な郭は西側台地よりずっと低い斜面中段の削平地で北側の民家のところ以外は薮化している。

「小諸市誌」では、小諸市諸の富士見城❨大室城❩を意識したもので、深沢川を堺にして、佐久・小諸と小県・滋野付近の西側勢力の備えであろうとしながら、領主も守将も明らかでなく、また旦田の意味も土地の名からのものか、城主の名からの呼称かもわからないとしている。
「信濃の山城と館」でも、城主城歴は不明ながら、立地からして、東向の城で、深沢を挟んで東方を見張るためのものであることが考えられ、南方400mにある「刈屋城❨三宅城❩」も同じで、滋野一族の三宅氏が居住したようで、祢津氏の係累に属するものであることがわかるとある。

不自然なのは、深沢川対岸の滝原に「旦田城」「刈屋城❨三宅城❩」に相対する城館が見当たらないことであるが、おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。
それまでの滝原の勢力は祢津氏と友好的な滋野一族の勢力が考えられ、後に祢津氏の警戒した勢力は大井氏であろうと推測する。
旦田城の対岸に相対する所には「塔の峯五輪塔群」があり、寺院の存在が考えられているが何かしらの手掛りにはなるまいか。




❨1❩の郭と北側の民家。
斜面中段の削平地で薮化している。

「信濃の山城と館」に、❨2❩は土塁状の平地とあるが、破壊が進んだのか道路より低い。

その西側の深沢堰は堀跡にも見えるが後世のものという。

写真を撮っている方向に楯状の小尾根があるが、旦田城にかかわるものか。





2019、11月初訪
2020、1月「塔の峯五輪塔群」のくだり追記

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...